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山手線事故 巨大な「称賛」の渦に戸惑う
「勇気とは何なのだろうか」
26日夜、東京・JR山手線新大久保駅で起きた事故で考え続けていることだ。
酒に酔ってホームから転落した利用客を助けようとしてカメラマンの関根史郎さんと、韓国から留学中の日本語学校生、李秀賢(イスヒョン)さんの2人が線路に飛び降りた。3人とも電車にはねられ死亡した。
身をていして、転落者を救おうとした。自己犠牲を感じさ人もいるだろう。同時に、2人のとっさの行動でもあったろう。
関根さんと李さんの死を悼み、勇気ある行動と称賛する声が広がっている。李さんのホームページに韓国や日本の若者らから寄せられた哀悼のメールは、10万件を超えた。
森喜朗首相が遺族へ贈った書状にも「真に勇気ある行為を心から称(たた)える」と書かれてある。
まず、自分自身に問う。その時、現場にいたら、2人のように線路に飛び降りただろうか。
思わず惨事から目をそらしただけだったかもしれない。胸の奥底をじっとのぞいて見ると、2人の勇気への共鳴とともに、戸惑いも潜んでいることに気がつく。
ちょうど同時刻ごろ、埼玉県朝霞市の東武東上線の朝霞台駅でも同じような事故が起きていた。大工さんが線路に転落し、自分ではい上がろうとしたが、電車とホームにはさまれ死亡した。
ホームには利用客は約50人いたが、彼らの行動には戸惑いは、感じなかった。
事故に巻き込まれ、亡くなった2人の親にとって、かけがいのない息子たちだった。「正義感と責任感がが強く、優しかった」という。
2人の人柄を伝える記事を読み、中国の孟子が説いた人間が本来持っているという四つの感情を思い出した。惻隠(そくいん)(哀れみ、痛ましく思う)、羞悪(しゅうお)(不善を恥じ、憎む)、辞譲(目上にへりくだり、譲る)、是非(正邪を判断する)である。経験で、よりはぐくまれたのであろう。
亡くなった2人のような人物がたくさんいれば、電車にわざわざシルバーシートを設ける必要もないのだろう。そんな人物を死なせてしまったことの無念さ。2人の行動に対する称賛の渦からは、そんな思いも伝わってくる。
駅ホームからの転落は、珍しい事故ではない。国土交通省の調べによると、全国で年間130件前後が発生し、30〜40人が死亡している。駅のホームに線路と隔てるさくのホームドアが設けられていれば、せめて転落で電車が自動的に止まる検知マットや線路に避難できる場所があればと、悔やまれる。
戸惑いを感じることは、もう一つある。それにしても、渦があまりにも大きいことだ。
私たちは、勇気や善意、正義感に飢えた社会に生きているためだろうかとも、考えたりする。
自分の身を顧みない自己犠牲への称賛も、大きな渦に含まれているようだ。これには戸惑いより違和感を覚える。
自己犠牲を求め、それが勇気だという。この不幸な事故を何かに利用しようとする思惑さえ伝わってきて、羞悪のなさを感じている。やめてもらいたい
(毎日新聞 01-29-23:33)
<毎日新聞 1月30日 社説>
1月28日 ◇天声人語◇
〈心の優しいものが先に死ぬのはなぜか〉と詩人、中桐雅夫は歌った。ニュースの詳細を知って、この一節が鮮烈に浮かんでくる。東京のJR新大久保駅で、ホームから転落した人を助けようとした2人の男性が、電車にはねられて亡くなった。
「彼ならやるかな」。その1人、カメラマン、関根史郎さん(47)の知人が語っていた。「生きるのが下手だった。何でも一生懸命だった」とも言った。もう1人、韓国からの留学生、李秀賢(イスヒョン)さん(26)の友人は「弱い人を見ると放っておけない、彼らしい行動だった」と、しのんだ。
とっさの場合どう振る舞うかに、人の本質がしばしば表れる。2人はちゅうちょなく、見ず知らずの男性を救うために動いた。なかなかできることではない。が、ここに、それをした人たちがいた。心ふさぐことがらが充満しているなか、ポッと明かりがともった。
人間は素晴らしい一面を持っている。よくないことをする人もいるが、善い人も少なくない。いや、善い人の方が多いに違いない。そんな気持ちになってくる。けれども、無念きわまりないことに命が消えてしまった。限りなく高い代償である。
きのう、現場のホームに立ってみた。折からの雪で、ホームの端はひときわ滑りやすい。線路に落ちかねない。ホームの幅も広くはない。右、左と、つぎつぎ電車が入ってきて、出て行く。あらためて怖かった。
この駅だけが特殊なのではない。全国の駅の、これが日常の風景である。利用者はつねに危険と隣り合わせている。実際、転落事故は後を絶たない。ホームの下に待避できる余地を設けるのも大切。さらに、ホームに転落を防ぐさくを作るといった方法も真剣に考えるべきだ。
「相手も救えず、これでは無駄死にだよ」。のこされた関根さんの母、千鶴子さん(76)のことばが頭を離れない。
<朝日新聞 1月28日 天声人語>
春秋
先日、芥川賞に決まった堀江敏幸さんがパリ近郊で暮らす中国からの移民や留学生の街を『おぱらばん』という作品に描いている。「以前」を意味する今あまり使われないこのフランス語が異郷の中国人たちの間で生き続ける機微に、作家は澄んだまなざしを投げかけている。
▼東京のJR新大久保駅で線路に落ちた男性を助けようとして電車にはねられ犠牲となった2人のうち李秀賢さん(26)は、韓国からの留学生として日本語を学びながら、アジアなど各地からきた外国人があふれるこの街で働いていた。目の前で起きた事故から見知らぬ客を救おうとして巻き添えとなった若い命に、哀悼の渦が広がっている。
▼留学や仕事で異邦に暮らす時、人は異文化のもとでの孤独や言葉の不自由から他人や地域との共生の感覚を阻む心の壁を作るが、李さんはもう1人の犠牲者のカメラマン、関根史郎さん(47)とともにためらうことなく危険に身を預けた。いまや日本人同士にも希薄な自己犠牲の心を隣国の若者が命をもって教えてくれたことに言葉もない。
▼炭鉱への強制労働で連行された祖父をはじめ、代々が日本と深くかかわってきた李さんは「韓国と日本のかけはしに」と大学院進学を目指していたという。そのホームページにはきのうで20万件を超す哀悼のアクセスがあった。社会に正義と勇気を呼び起こしたこの事故が、国籍のるつぼのような街で起きたことも深く記憶する必要がある。
<日本経済新聞 1月30日 春秋>
主張 教えてくれた「自己犠牲」
【山手線事故】
東京のJR新大久保駅で、ホームから転落した人を助けようと線路に飛び降りて亡くなった二人の男性の勇気をたたえる声が広がっている。産経新聞社には読者から「二人にこそ勲章を」といった意見や、遺族あての多くの見舞金が寄せられつつある。
結果的には転落した人を救えないまま二人とも犠牲になったわけで、家族や友人たちの悲しみはそうした言葉だけでいやされるものではない。「わが身のことを第一に考えてほしかった」というのも、偽らざる気持ちかもしれない。
しかし、それが決して「無駄な死」ではなかったことも強調しなければならない。「勇気」だとか「自己犠牲」の尊さを身をもって国民に教えてくれたからである。
とりわけ、韓国から留学していて事故に遭遇した李秀賢さん(二六)の場合、異国の地でまったく見も知らぬ日本人を助けようと、ちゅうちょなく線路に飛び降りている。韓国で育った李さんのこのとっさの行動こそ、戦後多くの日本人が失ったものだった。
友人たちによれば李さんは「人が困っているとき助ける勇気をもった人だった」という。しかし、そうした「勇気」は一朝一夕に身につくものではない。子供のときから家庭や学校、社会ではぐくまれていくものなのである。
戦前までの日本の教育も、家庭であろうと学校であろうと、わが身を犠牲にして弱い人や困った人を助けるという勇敢さを育てることをひとつの眼目としてきた。
犠牲といっても、必ずしも命を捨てるということではない。家族や社会のため、時としては国のために奉仕する気持ちを養うということだった。また社会もそうした行動をたたえてきた。そうであってこそ、とっさの場合の勇気も生まれてくるのである。
しかし、戦後の教育においては、こうした勇気だとか自己犠牲を「国家主義につながる」として廃棄してきた。その結果、自分のことしか考えられず、社会のことをかえりみない若者や大人を育ててきたのである。
先ごろ森喜朗首相の私的諮問機関である「教育改革国民会議」が学校教育への奉仕活動の導入を打ち出したのも、遅ればせながら、こうした教育の原点に返ろうとしているのである。
森首相は二十九日の李さんの葬儀に列席し哀悼の意を表した。このうえは二人の崇高な死に十分に報いる措置をとってほしい。また国会での施政方針演説でもその勇気に敬意を表明し、国民にこうした精神の復活のための教育改革を呼びかけるべきである。
<産経新聞 1月30日 主張>
1月30日付・編集手帳
JR山手線新大久保駅での痛ましい出来事は人々の心を揺さぶった。亡くなった関根史郎、李秀賢両氏に、警視総監感謝状、警察協力章が贈られ、政府も森首相名で「勇気をたたえる」書状を届けた
◆それもいいが、お二人の犠牲に国として報いる叙勲制度は働かないのか。そう考えて、内閣府賞勲局に聞くと、勲章ではなく賜杯を贈る準備を進めているそうだ
◆昨年六月の、新潟県入広瀬村での事例がある。山で遭難した男性の遺体収容作業に協力中、雪崩で命を落とした地元の山岳救助隊員で旅館経営の浅井乙一氏(当時七十三歳)に賜杯(木杯)が贈られている
◆複雑な叙勲制度の中に、賜杯(銀杯と木杯)があり、「勲章に替えて授与する」と規定されているというのだが、これもわかりにくい。近年では、他にも消火活動に協力中、犠牲となった民間人に木杯授与の記録が残る
◆もう一つ、褒章制度がある。各褒章のうち、紅綬は「自己の危難を顧みず人命を救助したる者」が対象だ。忠実にこの規定を読む限り、まことに悲しいことに、該当しないという
◆叙勲基準は「国家または公共に対する功労」を基本理念に掲げている。どんな行為が最大級に報いられるべき「功労」なのか。「官尊民卑」ともいわれる叙勲制度改正では、この論議をもっと深めるべきではないか。
<読売新聞 1月30日 編集手帳>
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