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2001年7月6日 みんなのいえ
2001年7月10日 面白い本ばかり?
2001年7月25日 スター★ガール

2001年7月6日 みんなのいえ

 今月の映画の日は、三本ははしごする予定だったのに用事やらなんやらがかさんで結局一本しか見られなかった寂しさ。。。

みんなのいえ
<脚本と監督:三谷幸喜/出演:唐沢寿明、田中邦衛、田中直樹、八木亜希子>

ストーリ<オフィシャルサイトより>
 飯島直介(田中直樹)は30歳台半ばの脚本家。妻民子(八木亜希子)と一生暮らす家を建てることに夢膨らませている。緑豊かな高台の土地にセンスのいい家を建てようと、2人が設計を頼んだのは、新進気鋭のインテリア・デザイナー柳沢(唐沢寿明)。家の設計は初めてだが、海外の建築様式に精通し、最先端のセンスを持つ柳沢に2人は期待を寄せる。そして施工の方はというと、民子の父で大工の棟梁長一郎(田中邦衛)に依頼する。仕事は丁寧で頑丈な家を建てる長一郎だが、最近はあまり仕事に恵まれていなかった。久々の大仕事、しかも娘夫妻の頼みとあっては、いやが上にも力が入る。早速古い仲間を召集する。

 それぞれ素晴らしい資質を持つ2人、だがデザインに精通しているものの現場経験のない柳沢と、現場経験は人一倍だが柳沢の口から出るカタカナがさっぱり解せない長一郎、さらに少々ボケも始まっているその仲間達。お洒落で開放感溢れるアメリカ建築をデザインする柳沢と、とにかく頑丈な和風建築を建てようとする長一郎。妥協を許さないアーチスト感覚の柳沢と、職人としてなんとしても納期に間に合わせようとする長一郎。そんな2人に共通しているのは頑固さだけ。ことごとくぶつかり合う2人の間で、おろおろしてその場しのぎの解決を図ろうとする直介。ここでの仕切り能力は夫としての威信も懸かっているのだが、迫力溢れる2人の前に直介はひたすら無力だった。

 しかし、事態に変化が現れる。

 まさに、三谷幸喜、という映画だった。いや、映画、ではないかな。むしろ、テレビ的な手法に近い作品だったかも。そもそも画像サイズがテレビのサイズ比だったし(笑)。前作『ラジオの時間』は、シチュエーションコメディとしての『演劇的』な手法が目立ったけど、今回はその印象は多少ナリを潜めていた。とはいえ、もともと舞台人の三谷幸喜、やはり一つのシーンをカメラ割りだけで長く繋いでいるあたりは、演劇人の演出を感じる。

 さて、内容だが、典型的な、彼がもっとも得意とするタイプの『喜劇』。だが、決して大爆笑できるほど面白いわけでもなく、しかも笑わせ方が多少姑息に感じた。特に、超大物有名人が、チョイ役や一瞬画面に現われるだけで、エンドタイトルにもでない、っていうのは、遊び心といえばそうかもしれないが、特に姑息だったように思える。
 シリアスな場面も、何故そうなるのか、イマイチ読めてこないところが多すぎた。伏線を貼っといて活かさなかったり、逆に伏線を貼っていないのに突然出て来たり。。。

 この映画は、テンポが良いからついつい引き込まれ、その当たりに注意が行かなくなりがちになると思うが、話しの深みが無い。ひとえに、登場人物の掘り下げ方が中途半端だからだ。登場人物それぞれの性格は分かり易い。分かり易いからこそ、そういう人たちが徐々に心替わりしていく過程は慎重に話しを進めなければならないのに、あまりにもアッサリとしてしまっているのだ。

 と、散々貶してしまったが、それでもこの映画、オススメしたいですね。特に、過去に三谷幸喜の喜劇にはまってしまい、彼のやろうとしていることをなんとなく知っている人なら、見て損は無いと思う。三谷幸喜という人を知っていれば、この作品は楽しめると思う。ま、その意味で実は映画としては問題あるんだろうけどね。映画館に見にいくほどではないけど、レンタルビデオになったりテレビで放映されるようになれば、見てもいいんじゃないでしょうか。

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2001年7月10日 面白い本ばかり?

 世の中に「本」と名の付くものは多いが、ある意味では、どの本だっておもしろい。『つまらない本はない。つまらなく読む読者がいるだけだ』という意見だってあるくらいだ。

 さて今日は、賛否両論、どちらかといえばの方が多そうなお話しを一つ。。。(笑)

 ワシは、文章書き(志望)のご多分に漏れず本屋に行けば数時間は本を見ている性質なんだけど、ここんところ(でもないか)、本屋に行くたびに不思議に思うことがある。それは、文章書きの素人が書いた、自らの体験本が面白いように売れている、って現象だ。人とはちょっと違った人生を歩んだ人の体験談、人生をどう組み立てて生きるべきかという教則本、それらが売れている。

 もちろん、一昔前にも同じような本はあった。でも、それは一応文章書きのプロが書いていた。あるいは、そこそこの文章力が無ければ、売れることは無かった・・・・・・ように記憶している。弱気(笑)。

 しかし、最近では、ちょっと数奇な人生を送っていれば、それが本の帯に書いてあれば、そこそこ売れる本になるらしい。ワシも、何冊かパラパラ読んでみたが、確かにそんなに酷い文章ではない。でもそれは、編集者の努力の賜物だと思う。しかしそれでも、ほとんどは文章として成立し得る、って程度のものだ。

 いま売れているこの手の本は、文章の美しさではなく、内容の奇抜さが受けているのだろう。逆に、難しい言いまわしや婉曲的な表現は、あまり好まれないのだろう。  こういう本の存在がイカン!というわけでは無い。ワシが憂いているのは、こういう本ばかりが売れて、日本語の美しさ、ストーリーテリングの面白さ、それらを内在させた本が売れない=そういう文章が読まれない、ってことだ。

 最近の読者の傾向、っていうのは、言い方は悪いが、お手軽な本を選んでいるのだろう。人生訓、教訓などが、ストレートに表現されている。だから読みやすいし、理解しやすい。あるいは、理解した気になりやすい。
 ところが、小説、ってのは、その辺が婉曲に表現されているものだ(もっとも最近は、お手軽小説も多いようだけど)。基本的に小説ってものは、婉曲的に表現されいてる文章、単語の奥に潜むものを発見する、その想像力をかきたてられる作業が醍醐味だ。

 想像力を必要としない言葉は、ただの情報として蓄えられているだけではないのだろうか。字面を追うだけの読書、てのは楽しいのだろうか?

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 もしかしたら、ワシのいっていることは物事をややこしくしているだけなのかも知れない。んな事考えないで、各個人が読みたいものを読めば良いじゃん。それは確かにそうだろう。

 そこで、冒頭の言葉が出てくる。

 世の中に「本」と名の付くものは多いが、ある意味では、どの本だっておもしろい。『つまらない本はない。つまらなく読む読者がいるだけだ』という意見だってあるくらいだ。

 これは、ほぼ日刊イトイ新聞のコラム、『担当編集者は知っている。』のコーナーに書かれていたものだ。本は好きな読者が好きなように読めば良い。おそらくこれは本というメディアの真実だ。

 それでもついついこんなことを言ってしまうのは、やはり現代人は言葉を知らないと思うからだ。物事を表現する言い方を知らないからだ。言葉を知る、言い回しの表現を知る、ってことは、文章を書くことに限らず、日常生活の中で、自分の考え、感情を人に伝えるのに、とても重要なものだ。

 そのために知るべきは、情報としての言葉ではなく、実感としての言葉だ。実感としての言葉を得られるものは、ワシはやはり小説だと思う。さて、ワシのこんな考えは古いのだろうか???

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2001年7月25日 スター★ガール

 最近本を読んでなかった。こないだ↑こんなことを書いておいて、小説をなかなか読まなかった。雑誌やら、情報を得られる媒体はいろいろ読んでたんだけどねぇ。。。ワシの場合、本を読んで無いとその影響は如実に現われて、文章の書き方(特に小説の書き方)を忘れて書けなくなったり、書く気力が無くなったりする。書いてても、全然面白くない。だから、ここ最近サイトの更新も滞っていたのだけどね(苦笑)。

 で、久しぶりに読んだ小説がこの『スターガール』という作品。この本はパブリッシャーズウィークリー誌の全米書店員が選ぶ「2000年一番好きだった小説」にも選ばれてた。なんとなく、この「書店員の選ぶベストブック」てゆーランキングは、信憑性があるような気がしない? なんとなくだけどね。

スターガール
<作者:ジェリー・スピネッリ/訳:千葉茂樹/発行:理論社

ストーリ<オフィシャルサイトより>
不思議で面白くて、そして胸の痛くなる哀しい物語
 マイカ高校に不思議な女の子が転入してきた。スターガールと名乗るその子は、奇抜なファッションで、ウクレレをかきならしながら、ハッピーな歌をうたう。無邪気で陽気なスターガールは、いつしか校内のアイドルに。しかし、チアリーダーとして、相手のチームにまで声援をおくった事件をきっかけに、その人気は急転落。スターガールは、みんなからシカトされる。ところが、スターガールは、へこたれない。あるダンスパーティーに姿をみせたスターガールは、だれの目もきにせずひとり楽しげに踊りつづけた。その姿に男子生徒たちはパートナーをわすれて、スターガールを取り囲むのだった。

 この作品を読んで、スターガールの行為に一つでも眉をしかめたり、それはどうなのよと感じたり、そんなことありえないよと思ったのなら、あなたは世の中の99.9%の側の人間になる。いわゆる、良識ある多数派、ってヤツですな。あるいは、作中の言葉で言うならば『みんな』。もちろんワシも、そっちの側の人間。

 ワシがよく言う『日常生活の其処彼処に潜んでいる小さな発見と幸せ』 (こんな言い方はしてなかったけどな。笑。そういうニュアンスで言い続けてるつもりなのさ) ってものを、スターガールはモノの見事に体現している。

 ワシの友人で、一人だけこのスターガールのような人がいる。とはいえ、スターガールほどの奔放さがあるわけではなく、せいぜいそのエッセンスの30%程度を体現しているくらいだけど。それでも、自然体で生きようとする姿勢 (こういう表現でしか表せない自分の語彙力の無さにほとほと呆れてしまうのだが) は、見ていてとても魅力的だ。

 そう。きっとあなたも、スターガールを読めば、彼女を魅力的に思うだろう。彼女は、ワシらの抑圧されている『自然体』を、余すところ無く体現している。彼女は人間のもつ『自然体』の最大公約数だ。それぞれの人間の持っている『自然体』をすべて集めれば、おそらくスターガールになるのだろう。でも、自分の持たない『自然体』のエッセンスに対する拒否反応、それが最大公約数であるスターガールへの拒否反応にもなってしまう。あなたの周りに、100%のスターガールが現れたら? あなたは果たして彼女と人間関係を保てるだろうか?

 この世の中には不思議なことなど何一つ無い。あるいはこの世の中には不思議なことしかない。この明らかに矛盾している二つの言葉を、感覚で共存させられたときに、きっとワシらはスターガールに一歩近づけるんだと思う。近づきたいか否か、は別にしてね(笑)。ワシは近づきたいと思うけど。

 とまぁ、『スターガール』というキャラクターの魅力について延々と書いてしまったけど、この小説の、小説としての完成度も、かなり高いと思う。それもひとえに魅力的なキャラクターがいるからといえてしまうが、構成や味付けにも、さほど不満は感じなかった。あまりの急展開に、読者が置いてけぼりにされそうなところもあるが、全体としての完成度は高い。そして、最後の最後まで、素敵に締めくくられる。
 紹介サイトにあるメインコピー『ほかでは味わえないラブストーリー』ってのは、この小説の主題をラブストーリーと思わないワシにはどうかと思うけど(笑)。
 また、この小説は映画化の話しも出ているらしい。なるほど、内容的には映画にしやすいかもしれない。スターガール役の女優が誰になるか、そして、主人公『ぼく』ことレオ役が、『自然体』と向き合う楽しさと難しさをどこまで演じられるか、この二点がキーポイントだろう。

 どうにも蛇足の話まで長くなってしまった。最後に、この小説は手元に置いておいて、自分を失いかけたときに読み返して安心したくなるような作品だ、ってことを伝えて、稿を締めさせてもらおうと思う。

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