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コトノハPersonalログ2001年1月

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2001年1月8日 はじめの一歩 長いご挨拶とちょっとの解説

 WEBPAGEを作ってみた。別に時流にのった・・・・・・わけでもあるけど、この世界中に何千万だかのサイトがある現在のWWWで、その片隅にちょっと参加をしてみようかと。

 でまあ、ちょっとインターネットと個人ページってモノについて。個人ページって、「インターネット」という【技術】を有効に活用するにあたっては、不必要なモノだ。今みんなはアナログ回線使っているのか、ISDNだかADSLだかわからないけど(ちなみにウチはアナログ回線・・・・・・泣)、そのトラフィックってかなりのものなわけで。優良なサイト、本当に役に立つサイトってのを多くの人が快適に活用するのに、その余分なトラフィックは無いにこしたことは無いわけだ。個人ページなんて、その多くは製作者と常連のマスターベーションの場に過ぎない。その為に、余分なトラフィックが割かれているのは、一種の災厄だろう。インターネットという技術を、如何無く発揮し活用するには、余計なものは削ぎ落としてしまったほうが良い。

 でも、個人ページとは存在するべきだと思う。

 古来、小説というものが存在しなければ、人はここまで多くの紙を消費することは無かっただろう。絵や音楽もそうだが、人は、表現するということをしなければ、遥かに多くのもの、時間を有効に活用出来たわけだ。でも、人は表現することを求めているし、それを見ることを求めている。その手段として、現在はインターネットというものが加わっただけだ。しかも、扱いは容易で今までのツールに比べて多くの人の目に触れる機会がある。人がインターネットに飛びつくのは、人としての道理、あるいは業といってもいいかもしれない。

 人は常に、「余計なもの」を欲しつづけてきた。その最たるは「芸術」だ。あるいは「表現活動」と言い換えても良い。この社会、世界を運営するのに不必要なものは何かと問われれば、私は自嘲しながら「芸術」と応えるだろう。そう、私もこの「芸術」を志している。

 現在、私はモノ書きを志している(文章書くことが「芸術」かという論議はこの際おいておく。少なくとも表現活動ではある)。まあそもそも露出狂なので、自分の考えは文章で表現したいし、自分の書いた文章はさらし者にしたい。欲を言うならいろんな人からいろんな意見やらなんにゃらをいただき(建設的なもの切望:苦笑)、吸収し、より高みを目指したいなぁ、と。そして、その手段としての、WEBPAGEなわけですわ。

 私にとって、まず重要なことは「書き続けること」だ。どんなものでもいい。とにかく書きたい。そして見てもらいたい。誰が見てくれるのかはわからない。誰も見ていないかもしれない。でも、私は書き続ける。

 そんなわけで、個人ページを始めてみました。はっきりいって、ほとんどのコンテンツが文章だらけだけど、よろしかったら読んでやってください。そして、感想を聞かせてください。なんか、今更当たり前の事を書いてしまったようだけど、『文章を書くこととは、誰の心にもある当たり前の気持ちを、言葉で表現すること』という、ある思想家の意見をちょいとアレンジしたものが信条の私なので、ご承知おきくださいまし。

 で、このサイトですが、トップページにあるとおり、オープンしたての現在は「第一期」です。第一期は、今考えているコンテンツを追加、拡充し、またデザインを変更して、読みやすいページを作るための試作段階です。まあ、実験段階だと思ってください。本当は、携帯電話用コンテンツも同時オープンさせたかったのですが、無料スペースを使っているため必然的に広告が入ってしまうので、現状では正式オープンは控えました。第二期からは、自分の持ってるドメインを使って運営する予定なので、そしたら、またいろいろと変わると思います。

 政治・経済・産業・哲学・文化・人間・ジャンク情報・創作などなど、これからいろんな事を書いていきます。よろしくお付き合いください。

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2001年1月13日 Funeral/フューネラル

 大学時代の友人である●氏(仮名)のご母堂が亡くなった。一時期は非常にお世話になった方であり、手伝いを頼まれたこともあって、11日通夜、12日告別式と参列してきた。享年49歳とのこと。若すぎる。明るく世話見の良い、とてもいい方だったので、非常に残念だった。この場を借りて、まずはご冥福をお祈り申し上げます。

 お葬式、とはとてもいろんなことを考える。

 ワシはかつて、二年間で家族が半減したことがある。高校二年生の冬に父方の祖父が、高校三年生の初夏に父方の祖母が、そして、高校を出て一年間フリーターをやっていたときの秋に父が、それぞれ他界している。6人家族だったものが3人となり、またさらに大学2年の秋には近くに住む母方の祖母も他界した。あの頃の我が家では「来年は誰だろう?」というブラックジョークが、笑いながらもいささか真剣な不安となって交わされていた。そして、「慣れてきたから葬儀屋でも開こうか」なんてバチ当たりなことまで口にしていたものだ。

 お葬式では、特に肉親なんかは、案外あっけらかんとしていて、笑っていることも多い。まあ、亡くなった方があまりにも若いときはそうもいかないだろうが(一度、ウチの隣の会場で7歳の女の子の葬儀があって、いたたまれなかった)、そこそこの年以上であれば、そんなものだったりする。もちろん、葬儀を一本執り行うことは非常な忙しさで、哀しんでいる暇も無い、というのもあるし。今回、ワシは結局会場に泊まったのだが、夜、●氏の親戚やらご母堂のご兄弟などと一緒に、家から持ってきたらしい高級酒を浴びるように呑んでいた。こうして故人を偲ぶのも、一つの供養の形かもしれない。

 その夜の、●氏の親戚の言葉が印象に残っている。「こうして、一族が集まる機会を作ってくれたんだ」と。そう、亡くなった方の最後の行いは、まさにこれかもしれない。なかなか集まることの出来ない親族が一同に会せるのは、こんな時くらいだろう。ならせめて、送る側もそれに感謝して、故人を偲びたい。

 しかし、肉親であろうと無かろうと、ひとつだけどうしても悲しい時間がある。出棺の時だ。火葬場へと向かう前、棺に花を詰めて、蓋に釘を打ち、最後の、永遠の別れを故人に告げる家族。これを見ると、あるいはその当事者だと、どうしても溢れ来る涙を止められない。

 でも、例えば自分が死んだとしたら、しめっぽく送られるのはイヤだ。特にあの、どこの葬式でも流れているクラ〜イ、ヴァイオリンの調べはなんとかならないだろうか。出来るだけ明るく・・・・・・ってのも変だけど、どうせ最後に聞く曲なら好きな曲が良いし、どうせ最後に見せてくれるなら、泣き顔よりは笑顔の方がいい。泣いてしまうのかもしれないけど、泣き笑いでもいいから笑顔を見せて欲しい。

 かといって、他所様の葬式でニコニコしているわけにはいかないだろうから、せめてそれが許される家族や親しい友人くらいには、笑顔でいて欲しいなぁ。・・・・・・って、なんか遺書みたいになってるし(笑)

 ワシの親父の葬式で、出棺の時に(この2年後に他界してしまった)母方の祖母が歌を詠んだ。

年老いし われを残して 彼ゆけり つれなくあれど されどいとしき

ほがらかな 笑顔のみ今 残りけり いと愛らしき 性(さが)なりしかな

雑談の あいまに浮かぶ 君の顔 消しようもなく 涙あふるる

 これだけ人に想われて逝けるなら、こんなに幸せなことはない。

 う〜ん、なんか今日の↑はとても観念的&いつも以上に主観的&感情的かもしれないなぁ。でもまあ、こんな不届き者も世の中にはいるってことで勘弁してくださいな。・・・・・・ダメ?

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2001年1月17日 6年目

 その頃、7時のNHKニュースで目が覚める毎日だった。その日もタイマーでテレビが付き、キャスターの声が耳に入ってきた。画面には、NHK兵庫放送局内の映像が写し出されていたような気がする。寝惚けた頭には、「大変だなぁ」くらいの認識しか出来なかった。そういえば、6時少し前に、小さな地震があったような気がする。だが、小さい震度だったので二度寝をしてしまった。

 センター試験が終わったばかりだったが、県立高校に通っていたワシはいつも通りに自転車で学校への道を走っていった。8時半、もう学校では始業の時間だが、気にせずに自転車を速めることもしない。通りかかったある店の店頭に置かれたテレビに『死者百何人』というテロップが映っていた。もしかしたらこれは凄いことになるんではないだろうか。しかしまだまだ全然緊迫感は無かった。

 学校に行っても、受験生であるワシらには特に授業も何も無い。いや、あるんだが先生方も受験対策ばかりで、これといった授業はやらない。みんなで朝の地震の話をしていたが、いかんせん情報がたいしてない。しかも、受験やらセンター試験やらの切迫した話題が目の前にぶらさがっていて、自然話しはそっちの方向に変わっていった。

 センター試験終了記念、といって友人とゲームセンターによってから帰宅した。そういえば朝の地震はどうなったんだろう。テレビをつけた。

 高速道路が倒壊していた。大火があがっていた。一つの街が崩壊していた。・・・・・・背筋が寒くなった。

 阪神淡路大震災。あれから6年が経つ。

 その年の夏、フリーターとなっていたワシは、毎夏恒例の長期独り旅の行き先を考えていた。お袋の故郷でもある広島に久しぶりに行ってみようと思っていた。大好きな京都にも。そして、その間にある街、神戸にも。震災から8ヶ月、その街を自分自身の目で見てみたいと思った。この動機がなんだったか、今となっては思い出せない。モノを書く人間が持つ性だったのか、それともただの好奇心だったのか、全然違う理由だったのか。とにかく、ワシは神戸にいくことにした。

 広島までの電車の中から、通りがかった兵庫の街並みが見えた。震災の爪あとがここからでも如実に見えた。数日後、ここに来てワシはなにを見ることになるのだろう。後になって、ここで来ることを止めておけばと悔やむことになる。

 広島から各駅電車を乗り継いで明石に着いたのは夜だった。今日はここに泊まろうとホテルを探したが、どこも電話が繋がらないか、満室かだった。天気も悪くなかったので、近場の公園で野宿をすることにした。翌朝、ジョギングをする人の足音で目が覚め、駅の手洗い所で洗面を済ませ、いよいよ神戸へと乗り込んだ。

 半日といることが出来なかった。心がずたずたに引き裂かれた思いがした。来たことを非常に後悔した。ワシがどんなに理由をつけようとしても、今自分がここにいることが、ただの物見遊山でしかないことがわかった。復興の始まったばかりの神戸の街。高台から眺めると、街のそこここにかかるブルーシートが日の光を反射している。あるいは更地となっている。高層建築物は、コンクリートの壁にヒビが入り、住民が全て立ち退いたままであろうところもあった。海の側でも多くの施設は閉鎖されたまま、修復を待っていた。ただの自意識過剰だとはわかっていても、街の人々の目線が気にかかった。今自分がここにいること、どんなに謝っても謝り切れない気がした。その気持ちは、実際に神戸の人たちが持っていたわけではなく、自分の中に産み出されてしまった罪悪感がどんどん膨らんでいった結果なワケだが。その日の夜、神戸から逃げるように立ち去ったワシは、京都のホテルで一晩中うめいていた。

 帰宅してから数日後、ニュースステーション(テレビ朝日系列)に震災に遭った観光会社の添乗員が出ていた。「今の神戸は、まだまだ復興の途中ですが、皆さんが来てくれることで、元気を取り戻します。是非おいでください」という彼女の言葉に、わずかながらも救われた気がした。彼女の言が震災にあった方全員の代弁だとは思わないが、そういう意識もあるんだと知ることで、ワシの意識も少し楽になった。

 大学に来て、あるいはその他の場面で、震災にあった人と多く知り合うことができた。そして、様々な話しを聞くことがで来た。その体験談は、いつも心に突き刺さる。そして、非常に為になっている。ワシも自分自身の気持ちを話すようにしている。それが、なんの為になるかはわからないが。

 震災に会われた方に心からお見舞いを申し上げるとともに、亡くなられた方のご冥福をお祈り申し上げます。これまでも、これからもずっと。それがあの年の夏、神戸にいった者ができるせめてものお詫びかもしれません。

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