その頃、7時のNHKニュースで目が覚める毎日だった。その日もタイマーでテレビが付き、キャスターの声が耳に入ってきた。画面には、NHK兵庫放送局内の映像が写し出されていたような気がする。寝惚けた頭には、「大変だなぁ」くらいの認識しか出来なかった。そういえば、6時少し前に、小さな地震があったような気がする。だが、小さい震度だったので二度寝をしてしまった。
センター試験が終わったばかりだったが、県立高校に通っていたワシはいつも通りに自転車で学校への道を走っていった。8時半、もう学校では始業の時間だが、気にせずに自転車を速めることもしない。通りかかったある店の店頭に置かれたテレビに『死者百何人』というテロップが映っていた。もしかしたらこれは凄いことになるんではないだろうか。しかしまだまだ全然緊迫感は無かった。
学校に行っても、受験生であるワシらには特に授業も何も無い。いや、あるんだが先生方も受験対策ばかりで、これといった授業はやらない。みんなで朝の地震の話をしていたが、いかんせん情報がたいしてない。しかも、受験やらセンター試験やらの切迫した話題が目の前にぶらさがっていて、自然話しはそっちの方向に変わっていった。
センター試験終了記念、といって友人とゲームセンターによってから帰宅した。そういえば朝の地震はどうなったんだろう。テレビをつけた。
高速道路が倒壊していた。大火があがっていた。一つの街が崩壊していた。・・・・・・背筋が寒くなった。
阪神淡路大震災。あれから6年が経つ。
その年の夏、フリーターとなっていたワシは、毎夏恒例の長期独り旅の行き先を考えていた。お袋の故郷でもある広島に久しぶりに行ってみようと思っていた。大好きな京都にも。そして、その間にある街、神戸にも。震災から8ヶ月、その街を自分自身の目で見てみたいと思った。この動機がなんだったか、今となっては思い出せない。モノを書く人間が持つ性だったのか、それともただの好奇心だったのか、全然違う理由だったのか。とにかく、ワシは神戸にいくことにした。
広島までの電車の中から、通りがかった兵庫の街並みが見えた。震災の爪あとがここからでも如実に見えた。数日後、ここに来てワシはなにを見ることになるのだろう。後になって、ここで来ることを止めておけばと悔やむことになる。
広島から各駅電車を乗り継いで明石に着いたのは夜だった。今日はここに泊まろうとホテルを探したが、どこも電話が繋がらないか、満室かだった。天気も悪くなかったので、近場の公園で野宿をすることにした。翌朝、ジョギングをする人の足音で目が覚め、駅の手洗い所で洗面を済ませ、いよいよ神戸へと乗り込んだ。
半日といることが出来なかった。心がずたずたに引き裂かれた思いがした。来たことを非常に後悔した。ワシがどんなに理由をつけようとしても、今自分がここにいることが、ただの物見遊山でしかないことがわかった。復興の始まったばかりの神戸の街。高台から眺めると、街のそこここにかかるブルーシートが日の光を反射している。あるいは更地となっている。高層建築物は、コンクリートの壁にヒビが入り、住民が全て立ち退いたままであろうところもあった。海の側でも多くの施設は閉鎖されたまま、修復を待っていた。ただの自意識過剰だとはわかっていても、街の人々の目線が気にかかった。今自分がここにいること、どんなに謝っても謝り切れない気がした。その気持ちは、実際に神戸の人たちが持っていたわけではなく、自分の中に産み出されてしまった罪悪感がどんどん膨らんでいった結果なワケだが。その日の夜、神戸から逃げるように立ち去ったワシは、京都のホテルで一晩中うめいていた。
帰宅してから数日後、ニュースステーション(テレビ朝日系列)に震災に遭った観光会社の添乗員が出ていた。「今の神戸は、まだまだ復興の途中ですが、皆さんが来てくれることで、元気を取り戻します。是非おいでください」という彼女の言葉に、わずかながらも救われた気がした。彼女の言が震災にあった方全員の代弁だとは思わないが、そういう意識もあるんだと知ることで、ワシの意識も少し楽になった。
大学に来て、あるいはその他の場面で、震災にあった人と多く知り合うことができた。そして、様々な話しを聞くことがで来た。その体験談は、いつも心に突き刺さる。そして、非常に為になっている。ワシも自分自身の気持ちを話すようにしている。それが、なんの為になるかはわからないが。
震災に会われた方に心からお見舞いを申し上げるとともに、亡くなられた方のご冥福をお祈り申し上げます。これまでも、これからもずっと。それがあの年の夏、神戸にいった者ができるせめてものお詫びかもしれません。
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