インデックス>ホーム>コトノハDaily>Dailyログ2006年2月
▲コトノハDaily
2006-2-10 (Fri)Version
何もなかったかのようにホリエモン妄想論をスルーしようと言う試み。
【未来予想図〜Blogの場合】
またまたまたまた、某所からの再掲(加筆、修正アリ)で、某所でご覧になっている方には恐縮至極でございますが。。。
ちょっと面白い創作を見つけました。もしかしたら有名かも?
●"Over The Rainbow" 〜十億アクセスの彼方に〜
まぁ、タイトルはアレがナニですが、内容はなかなか唸らされます。リンク先に行ってもらえれば分かりますが、各日付ごとに、Dad、Mam、Daughter(途中から)の順で読まれることを推奨。
さて、読んだと言う前提で、ちょっと雑感。ここで考えさせられることとしては、
1.書いたものがいつまでもインターネット上に「残るというリスク」
2.世界中の人が自分の家族を「知るというリスク」
の二点かな、とざっくり思います
この物語に書かれていることって、ぶっちゃけ結構非現実的な気もしますが、遠くない未来に起こりそうな気も、ほんのちょっとするんですよね。これまでは、子供の写真を撮ろうがビデオに収めようが、そんなのは親類と友人が見るくらい(たまにさんまのカラクリTVで流れるくらい?)でしたが、今は、WEBにあげることで、世界中からそれを見ることが出来ます。
子供の情報(写真など含む)をWEBにあげる、ということは、基本的に親の自己満足で、しかしそれは個人情報を晒していることにもなります。それを悪いとは言いませんが、そのリスクは、気軽にアップする前に、一度考えた方が良いんでしょうね。
そして、Blogでも普通のサイトでも良いんですが、WEB上に自分の書いたものを残しておく、ということ。例えばワシに子供がいたとして、子供が見たときにどう感じるのだろう、という類の問題は、向こう10年で発生してくる気がします。
例えば、親の赤裸々な性生活がBlogに書かれていたら、それが自分の生まれる前のものであっても、子供にはショックでしょうし。
WEBの文化って、広く一般に浸透してからはまだ10年も経っていないと思いますが、この「世界中から」「いつまでも残る」(削除しても、アーカイブサイトのDBに残る可能性はある)リスクは、意識しておくべきでしょうね。
別に、だからといってそういう文化を否定するわけでも、自粛するわけでもないですが。
そんなワケで、そういうリスクに応えうるこんな機能はいかが?
●ブログ更新ジェネレーター(デイリーポータルより)
※某所に上記の稿を書いた後、それを読んだ友人がさらにツッコンで分かりやすく問題点を明示化してくれましたので、リンクを貼っておきます。
●インターネットは永遠の命を持つ(Altworksより)
2006-2-22 (Wed)Version
久しぶりの連続更新(予定)の1日目。某所では、それぞれ一日早く書いています。
【恋愛代償〜ひとりリレーコラム1】
ひとりリレーコラム
・ルール
1.期間:2006年2月22日〜2月27日
2.初日のお題は「恋愛」、最終日(アンカー)のお題は「小説」で
間の日は、その前日の稿に出てきた単語を使い、最終日に繋げる。
3.本文は800字程度(現代人が最も読みやすいとされる文字数)
▼
『代償恋愛』
余り心理学に詳しいわけではありませんので単なる感覚値ですが。
ワシにとって「恋愛」ってのは、自分の中の「満ち足りた人生を送りたい」という欲求なり欲望なりが満たしきれていないときの、代償行為のような気がしています。「幸せな人生を送りたい」という欲望への代償行為と言っても良いかもしれません。
すなわち、恋愛そのものって、手段なんですよね。
言ってしまうなら、旅をする、映画や芝居を見る、小説を読む、そういった行為と同等の、満ち足りるだめの手段。
ワシは、別段恋愛巧者でもなく、それこそ経験で言うなら十人並みの恋愛をしてきましたが(まぁ、内容は自分なりに「濃い」な、と思ってはいますが)、考えてみれば恋愛が「目的」になったことはありません。
「人を好きになる」「人に好かれる」という行動を通じて、幸福感を得るだとか、満足感を得るだとか、心の飢えを埋めるだとか、そういったことをしてきました。
で、それって、他の手段でも得られるじゃないですか。それがワシの場合は、旅や映画や芝居や小説だったりする事が多いわけですが、こう、素晴らしい景色に出会えたり、心地良い時間を過ごせたり、感動できる物語に巡り会うと、ワリと簡単に満ち足りてしまいます。
まぁお察しのとおり、小生は非モテハイウェイを猫まっしぐらなワケですが、別段それでも構わないな、と思っているのは、もちろん恋愛に対して臆病になっている自分も感じつつ、それ以上に、他の手段で、満ち足りているのかなと思うのです。
でも、この間つと思ったのは。
旅や物語で満ち足りているのは、もしかして「恋愛の代償」としてではないか
ということ。
幸福感、満足感を得るために恋愛や旅や物語があるのか
恋愛の幸福感や満足感に飢えているから、旅や物語を求めているのか
果たして、ワシはどちらの代償行為をしているのでしょうかね。
とまぁ、まるで思春期の悩みのようですが、思春期よりも思考が複雑化している分、シンプルに考えるのは難しいものです。
2006-2-23 (Thu)Version
久しぶりの連続更新(予定)の2日目。某所の更新も綱渡り。
【欲求スパイラル〜ひとりリレーコラム2】
ひとりリレーコラム
・ルール
1.期間:2006年2月22日〜2月27日
2.初日のお題は「恋愛」、最終日(アンカー)のお題は「小説」で
間の日は、その前日の稿に出てきた単語を使い、最終日に繋げる。
3.本文は800字程度(現代人が最も読みやすいとされる文字数)
▼
『欲求スパイラル』
睡眠欲
食 欲
性 欲
俗説的に“人間の三大欲求”と言えば、この三つのことかな、と思います。まぁ、異説もあるだろうし、きちんとした学説もあるだろうし、そもそも“三大”である必要性も無いのですが、ここでは、これを前提に話をすすめます。
さて、ワシのそれぞれへの欲求を、百分率で表すと、自覚症状としてはこんな感じ。
睡眠欲 20%
食 欲 60%
性 欲 20%
……えぇと、性欲のパーセンテージについて文句が聞こえてきそうな気がしますが、それには耳をふさぐとして、特にリアルワシをご存じの方なら、食欲に一番注がれているのは、納得いかれるかと思います。
と言っても、別に睡眠を削ってまで食べたい、とかってワケじゃないですよ。
あと、性欲、というとどうしてもセックスへ繋げがちで、それは間違いでもないと思いますが、考え方によっては、“性欲を社会的に昇華させた形が恋愛”と言えるのではないかと思っているので、別に「性欲=セックス」と捉えないでもいいのかな、と思います。
さて。
昨日の、恋愛の稿とは違った意味で、この欲求ってのも、自らが満たされるための方便です。特にこの三大欲求ってのは、満たされないまでも、定常的に摂取をしておかないと、命に関わったりしちゃうワケです。
しかも困ったことに、遺伝子の塩基配列のように三者は絡み合い、その時々の事情によって“どれか”を選択することは難しい。基本的には、全てが必要なワケですね。
それでも、自分はどれが強いのか、ある場面においてどれを選択するのか、という思考実験は、自分の原動力を探る上で、面白い作業です。
例えばワシの友人は、睡眠欲が強い人が多く、50%とも、80%ともいう人がいます。恋人さんと一緒にいても、寝るよりも寝る方が優先だとか。
逆に、性欲が強い!と言い切る友人は少ないですね。それは、性なり恋愛なりに淡泊な人が周りに多いのか、照れからくるものなのかは分かりませんが。
ヒトとして、ということなら、多分この三つがある程度等分なのが、バランスの良い状態なのだろうと思いますが、現実は、偏った人が多いように感じます。これが、現代社会特有のものなのか、ヒトという種の本質なのか、それもまた、面白い考察が出来そうですね。
2006-2-24 (Fri)Version
久しぶりの連続更新(予定)の3日目。グダグダでも、意外に大変。
【選択チョイス〜ひとりリレーコラム3】
ひとりリレーコラム
・ルール
1.期間:2006年2月22日〜2月27日
2.初日のお題は「恋愛」、最終日(アンカー)のお題は「小説」で
間の日は、その前日の稿に出てきた単語を使い、最終日に繋げる。
3.本文は800字程度(現代人が最も読みやすいとされる文字数)
▼
『選択チョイス』
なにこの危険が危ない感じのタイトル。
ある友人さんが、某所の日記で、こんなことを書いてました。勝手に要約しますと……
<要約>ある男性が、ちょっといい感じになった女性と、クリスマス直前に恵比寿ガーデンプレイスでイルミネーションを見ながら手をつないだりなんかしちゃって、クリスマスも会って、でも、どちらの日も何もなく駅で分かれて……その時、どうにかなってたら、どうなってたんだろう。</要約>
という話を紹介され、「数多の可能性の中で今がある。たまには、何を選びとって今があるかを考えるのも良い」という主旨で稿を締めておられました。
今更指摘するまでもなく、人生とは選択の連続ですが、ワシが特に気になっているのは、選択と可能性の関係。
可能性って、実際にそこに存在するものではなく、極端に言い換えれば、脳内で追っただけの、いわば妄想ですよね。そして、多くの場合それを根拠に、ヒトは選択をするワケですよね。
これって、ものすごく不安定なことじゃ無いですか。
きっと、「後悔」という言葉も、選択の根拠がその不安定さであるがため、出来た言葉な気がします。いっそ、運命、なんてものにすべての思考を委ねたほうが、よっぽど楽でしょう。
ワシは、選択をした後、それにまつわる可能性への思考を封印します。何故なら、その先には、選択の結果しか存在しないからです。それ故か、選択は「全て、するべきものをしてきた」と思っているので、人生に於いて「後悔」は存在しておりません。
とはいえ、冒頭のエピソードのように、可能性を再検討する、という作業も重要です。それは、歴史を学ぶことでよりよい歴史を作ろうとする作業に似ています。
可能性と選択、この連鎖から逃れられないなら、せめて後悔はしないよう、その結果を楽しめるようになりたいですね。
2006-2-25 (Sat)Version
久しぶ(中略)4日目。仕事はテンパってます(←関係ない)。
【運命の効用〜ひとりリレーコラム4】
ひとりリレーコラム
・ルール
1.期間:2006年2月22日〜2月27日
2.初日のお題は「恋愛」、最終日(アンカー)のお題は「小説」で
間の日は、その前日の稿に出てきた単語を使い、最終日に繋げる。
3.本文は800字程度(現代人が最も読みやすいとされる文字数)
▼
『運命の効用』
運命、といえばベートーベンの「じゃじゃじゃじゃーん」の重厚な旋律が余りに有名ですが、言葉としては、重厚そうに見えて、実はかなりお手軽ワードです。どんなに必然で起こったことでも、信じられないような偶然でも、「あ〜、運命だもんな」の一言で済ませることが出来てしまいます。
すると、言った方も言われた方も「じゃ、しょうがないか」となってしまう。ワシの中では、人間の思考停止を促すNGワードのひとつです。
この世界の動きがどのように決められているか(あるいは決められていないか)については、哲学の側面からも、科学の側面からも、あるいは神学の側面からも、過去様々に議論し、検証されてきました。
例1)極端な運命論者は、世界は神の決定している線上を動いているだけだ、と言います。人間は、さも選択をしているようですが、実はその結果は既に決まっている、という説。強い信仰を持つ人にみられる例です。
例2)量子論(←さわりすら理解してませんが)に基づき、世界の全ては不確定。観測者(ヒト)がそれを観測することで、位置が決まるから、未来だって無限の混沌の中にある、という説。不確定性原理を元にしてますが、科学への造詣が深い人に見られる例です。
ワシは、個人的には神道の信仰を持ちますが、運命論者ではありません。もしかしたら幻想かもしれませんが、自分の選んだ道は、運命なんかに責を負わせないで、自分のものとして責任をもって生きていたいのです。
「私達って運命で結ばれた仲♪」そんなことを仰る人が本当にいるかどうかは知りませんが、これだって、人間同士が好き合うのは、互いが互いの何かに惹かれたからで、運命なんかじゃない。互いの責任で恋愛をし、良いところを認め合い、伸ばし合い、自分をも高めることで、始めて好き合う二人ってのは人としての高みに登っていくのかな、と思います。
少なくとも別れる時、その理由が「運命」という人は、余りいないようです。
▼
この稿は、本サイトの『7文字で200倍返し』という企画で書いた『運命』というお題のものを、大幅に加筆修正したものです。この企画、お題の文字数(「運命」なら2文字)の200倍の文字数(2文字のお題なら400文字)でコラムを書く、というもの。伊集院光の類似企画に触発されてやってました。
2006-2-26 (Sun)Version
5日目!朝更新したつもりだったのにこんな時間。。。(21時)
【信仰セレナーデ〜ひとりリレーコラム5】
ひとりリレーコラム
・ルール
1.期間:2006年2月22日〜2月27日
2.初日のお題は「恋愛」、最終日(アンカー)のお題は「小説」で
間の日は、その前日の稿に出てきた単語を使い、最終日に繋げる。
3.本文は800字程度(現代人が最も読みやすいとされる文字数)
▼
『信仰セレナーデ』
幾たびか書いておりますが、ワシはこう見えても、神道の修行をし、神主(心得見習)の免状(まぁ、最も初歩ランクですが)を持っております。家が神社なワケじゃありませんが、生まれた頃からある神社に行っており、いわば習い事のように、ナチュラルに受け入れてきました。
と、これを明かすのは、サラッと言っているようで、実はいつも意外に勇気のいることでして、その理由のひとつは、普段のワシには全く宗教色が無く俗物も良いところなので、“オマエなんぞが神主なんだとしたら、神など信じられるか”という言われかねないこと。これはまぁ、笑って済む話。
もうひとつの理由は、現代社会に蔓延する、宗教というものへの不信感、です。
カルト教団による地下鉄などでの無差別テロ、政治に強く介入する巨大宗教法人、信者の未成年を含む女性を言葉巧みに姦淫した宗教者、揃いの装束を着て車で行列する団体……小説より奇なる事実が次々に起こっている中、宗教者への悪印象、ってのは、確かに枚挙に暇がありません。
ただ、ここでやはり強調したいのは、悪いのは「宗教という教え」「人の信仰心」を利用する人がいる、ということであって、宗教や信仰の概念そのものではない、ということです。
さらに。ワシは、宗教と信仰を分けて考えていて、宗教とは信仰の為の方便、だと思っています。逆じゃないですよ。別に、宗教なんて無くたって、信仰は持てるんです。これは突き詰めれば、アニミズムに繋がる考えになるかもしれませんが、宗教とは、信仰のための、いわば教科書のようなものです。
問題は、良い教科書に出会えるかどうか。
ワシは信仰を持ち、良い(と自分で思っている)教科書で学んだことで、死や、人間関係やらと言った問題に、恐らく信仰を持たない人よりは確固たる概念を持っていて、それは、ある場面では“強さ”にも繋がっていると思います。
宗教への勧誘や、信仰を持つことの強制をする気はさらさらありませんが、信仰を持つことの良い面は知って貰いたいですし、宗教であると言うだけで嫌悪をされるのは、やはり哀しいのです。
2006-2-27 (Mon)Version
連続企画最終回でごわす。
【小説家を目指して〜ひとりリレーコラム6】
ひとりリレーコラム
・ルール
1.期間:2006年2月22日〜2月27日
2.初日のお題は「恋愛」、最終日(アンカー)のお題は「小説」で
間の日は、その前日の稿に出てきた単語を使い、最終日に繋げる。
3.本文は800字程度(現代人が最も読みやすいとされる文字数)
▼
『小説家を目指して』
友人にご案内いただいて、青山表現学校の“小説家を目指す人のための小説教室〜小説の読み方・書き方〜”という講座を受けさせていただいておりまして、昨日が第一回でした。講師は、『海燕』『野性時代』の元編集長、根本昌夫氏。
小説は他人に習うものじゃない。自分で書くものだ。
なんてことは、某日芸文芸学科に通っていた時分から十分に承知の上ですが、それでも興味を持ったのは、文芸誌の編集という立場の方のお話にとても惹かれたいうのがひとつ。文章を書くことを目指す人の中に今ひとたびまみれてみたかったのもひとつ。
講座の内容的には、小説というものへの考え方を解説し、実際に各受講生の書いてきたものを講評する、という感じ。某文芸学科で、文芸系のゼミに一年でも属したことがある方なら分かるでしょうか、アレに近いものがあります。
受講生は、ひとり大学生がいる他は、小生が最年少の世代。全般的には40〜60代の方が多いでしょうか。年齢に幅はあれど、こういう雰囲気は久しぶりなので、結構、楽しみです。
と、言いつつ。
ひとつだけ気になっていることがあって、それは、講座名にもなっているのですが、皆さん、「小説家を目指して」受けに来ているのかな、ということ。
何を当たり前のことを、と言われるかもしれませんが、まぁ聞いてください。
講座のタイトルにこれが使われるのは、分かりやすさという点で考えれば当たり前なので、良いと思うのですが、もし、受講生の意識もそれと同様だったら、そこにはちょっと違和感を感じてしまいます。
というのも。
ワシは、小説家って、小説家になりたい!と思ってなるものじゃなくて、書きたいものがあるから、結果として小説家になるもんなんじゃないかな、と感じているのです。
ワシは、「将来の夢は?」と聞かれると、「小説家になりたい」とは答えません。「文章で飯が食えるようになると嬉しいね」という答え方をします。ワシにとっては、小説家とは「なる」ものではなく、「人の心を動かせる物語を作りたい」という動機があって、その結果小説家に「なっている」もの、という考えです。
夢の形には、「なりたいものがある」と「やりたいことがある」の二通りがあります。
こと、表現をする種類の夢とは、基本的に後者であるはずです。もちろん根本氏も、こんなことは重々分かっていることで、昨日の講座でも「書くことをやめたら、そこで終わりです」ということを仰っていました。
ま、動機がなんであれ(小説家になりたい、という動機から始まっても)、結果的にそれで大成しているならば(小説家になっているならば)、全然、問題はないと思いますが。
じゃあ、このワシのこだわりはなんなのか、と言うとですねぇ……えぇと、これから、本気で思っている青臭いことを、真顔で書きますよー。覚悟は良いですかー。
ワシは、自分の書いた文章、それが別にメジャーデビューしなかったとしても、それこそこのサイトやmixiに書いているレベルででも(mixiではあり得ないか)、その文章をキッカケにモノの見方や考え方が好転して、幸せになった、と言う人がひとりでもいれば、充分です。
さらに言うなら。。。
文章でじゃなくても良いんです。誰かひとりでも、ワシがいたことでなんらかの形で「幸せになれた」と感じてくれた人がいるなら。そしてその人のいまわの際に、ホンの一瞬でもワシを思いだして貰えるなら、その時ワシが生きてようが死んでようが、この世界に生を受けたことを満足に思えるでしょう。
そのためにワシは、まだまだ文章も、人間力も研磨します。
▼
うがぁ、ごめんなさい、最後の最後なのに、どうやっても800字程度に収まりませんでした……orz 研磨できてねーじゃん。。。
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