インデックスホームコトノハDaily>Dailyログ2005年5月

▲コトノハDaily

コトノハDailyログ2005年5月

2005-5-7 (Sat)Version 
地味に2週間放置。あははははぁ(乾いた笑い)

【感情論】
 某所からの修正再掲です。かたじけない。

2005年04月25日17:55 記

あちこちで紹介されてますが。

福知山線脱線事故まとめ@ハサウェイの徒然なるままに・・・



 こういう紹介の仕方が、単なる興味本位と詰られるのは覚悟の上ですが、小生の意図やスタンスに関わらず情報は情報として存在しています。この部分のバランス取りは、自称ニュース系サイトを運営しているモノとしては、いつも頭を悩ませるところです。

▼参照:鉄道事故



2005年04月26日22:42 記

 ここで書くような事じゃないかもしれませんが……えぇと、やはり小生にとっては、考え及んだことを文章化しておくことが意味あることなので記します(だったら誰にも見せないような日記にでも書けばいいじゃん、というツッコミは甘受しますです)。



 福知山線の脱線事故で、とあるお取引先企業様の東京支社長ご夫妻が亡くなられたそうです。



 もちろん、実際のお話しは現場の方としているので、小生はその方にお会いしたことすらありませんが、この事故が、自分に近いところで起こっていたことを急に感じ、その恐怖感を感じました。



 自分と関係無いところで起こっている痛ましい事実について“実感”を持てないことは、なんら悪いことではないと、小生は考えます。人は基本的に、自分の身近なことから出発しないと、感情を“理解できても”、“実感はできない”と考えるからです。

 だから、「当事者じゃないくせに何が分かるんだ!」という当事者のセリフには、小生否定的です。当事者じゃない人に“実感”がないのは分かりきっていることで、それは前提としておかないと、当事者と非当事者間の話しは成立しません。

 閑話休題。2年前、アメリカによるイラク攻撃が始まったころ、このサイトで「戦争反対、でつか?」という連載記事を書き、その中でも同様の概念について触れています。



 さて今回、“当事者”と“非当事者”の中間くらいに放り出されてしまったワケですが、それでもやはり、この事件が急に身近なことと感ぜられました。そこでふと、この“実感”への考察が出てきてしまったのですが、まだ思索を追っている状態です。結局理屈をこねているだけなのですが、感情変化のプロセスを言葉で追うことは、やはり意味あることと考えています。

 ……えぇと、なんか中途半端かつ不謹慎なお話しでゴメンナサイ。お取引先様を含め亡くなられた皆様のご冥福と、怪我を負われた方にお見舞いを申し上げます。例え中途半端な位置で、中途半端な“実感”しか持っていないようでも、その想いに偽りはありません。

2005-5-9 (Mon)Version 
昨日、出社したらPCの電源が点かなかった。どっかが逝ったぽ。休日出勤したのに。死にたい。

【視点】
 坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。ということわざを思い出すのが、昨今のJR西日本叩き報道。福知山線の脱線事故の後、ボウリングや宴会をしていたことが非難されています。そりゃあボウリングも、宴会も、しないに越したことはないでしょうし、自粛するのがよりよい判断でしょうけど、ここまでマスコミが、ほとんど国民を煽るかのような「JR西日本憎し」な報道をしているのには、疑問を感じます。

 誰も彼もが現場に行けるワケでもないし、行けば良いってもんじゃない。

 むしろ、これは小生の意見が非難されるかもしれませんが、自分たちのいる会社が重大事故を犯してしまったストレス、それを緩和するためのレクリエーション、という視点だってあるでしょうに、このままいったら、本件がひと段落つくまで(しかもその「ひと段落」とはマスコミが決めるのでしょうな)JR西日本の社員は映画も呑み会も旅行も行けなくなってしまう。マスコミは、かつては護送船団方式を否定しておきながら、ここにきて親の不始末は子の不始末、とでも言うかのような、一族ハラキリ思想を喧伝する。これは余りにもイビツです。正直ワシには、そういう報道方法が大衆ウケするからしているようにすら思います。

 あと、もうひとつ気になるのは、「現場は悪くない。悪いのは会社だ」的報道。一見すると、弱者である『現場』が、強者である『会社』に対して、その悲痛な叫びを訴えている、という、如何にも日本人が好みそうな展開ではありますが、あれ、現場の側だって、労働組合という組織が背景あることをお忘れなく、と思います。

 JR、すなわち旧国鉄の労働組合の力は強大です。言い方は悪いですが、自分たちの保身のために、経営陣を悪玉に据えることを平気でやります。今回も必ずしもそうだと言う気はありませんが、マスコミが拾ってくる現役社員、退職社員のコメントは、ほとんど全て「会社が悪」です。ここには、そういった「現場保身」の潮流が流れていることは、報道を受け取る側は意識すべきでしょう。

 事態を相対化すべきではありませんが、視点は相対化すべきです。言い換えるなら、責任の所在を、相対化することで曖昧にすべきではありませんが、責任を追求するための視点は複数もつべき、とでも言うか。少なくとも、マスコミ報道だけに拠る判断は、それが個人レベルの茶飲み話だとしても、やや危険に感じます。

 恐らく、我々非当事者が持てない視点とは、被害者(含む周辺住民)の視点だけです。

 JR西日本と言う会社にも、その組織のアチコチにも、猛省すべき点は幾つもあるでしょうし、軽率な行動言動は慎むべきでしょう。しかし、まるで「JR西日本は悪の権化」というマスコミの煽り方はいかがなものかと。そうして図式を矮小化してしまうことで、問題の本質を見逃し、それは結果として事故の再発防止になんら寄与しない、という点を、ワシは危惧します。

 今回の事件で、被害者や周辺住民から批難されているのは、JR西日本に次いでマスコミです。しかしマスコミは、もちろんそんなことを報道しません。マスコミ報道だけに拠らない視点、もし本当に事故の再発防止を願うなら、そういった、まぁちょっと恥ずかしい言葉を使うなら「メディアリテラシー」(メディアを使いこなす能力(意訳))を持っていて然るべきかと。

2005-5-17 (Tue)Version 
俄かに慌しくなってきました。お仕事だけでもなく・・・・・・。

【大相撲〜その知られざる世界〜】
 ゴメンナサイ。場繋ぎのネタ更新兼某所からの再掲です。





「お客さ〜ん、こってるトコ無い〜?」

 という感じの上の写真。先日やふニュースで見かけたとたんに衝撃が走りました。「すげーすげー・・・・・・もしかして、相撲って結構ファンタジスタな写真があるんじゃないか?」と思って少し漁ってみたら……出てきちゃったよ、こりゃ。

 てわけで、今日は相撲写真特集。……えぇと、大相撲とはお仕事の関係も無くは無いので、こんなネタはギリギリアウトな気もしますが、笑い流してくれると良いんじゃないかな……ゴメンナサイ(先に謝っとく)。



▼朝青龍は黒海を上手投げで下す







「ア、アニキィ……もう……ダメだ……」
「死ぬなぁぁぁ!黒海ぃぃぃ!」






▼露鵬を寄り倒しで下す朝青龍







「キスぐらい良いだろ」
「やめてっ!そんなつもりじゃないの!」






▼白鵬がはたきこみで海鵬を破る







「オレの焼きそばパンーーーっ!」





まぁ、良いトコ「ちょびウケ」くらいかな(涙

2005-5-19 (Thu)Version 
命短し。

【世界でいちばん】
立川市のある場所の地図

 右の、縮尺バーを、20km→10km→5km→2km→1km→……、とひとつづつ下げていってください。500mあたりから、中心に注目。200mまでくれば鮮明に読み取れます・・・・・・



 なんじゃこりゃあ!






 ちなみに、現地に行った人のレポート。有限会社の模様(何

【アフロでチュウ】
 会社の倉庫の片付けをしていたら発見。



















 増毛。








2005-5-23 (Mon)Version 
何を書けば良いのかなぁ(涙目で)

【ベルファーレの封印】
 昨日お仕事で六本木velfarreへ。諸事情により受付のところにいたのですが、通常お客さんの導線からは目に入らない階段の横に、オフダが貼ってありまして……う〜ん、どうみてもそれが、商売繁盛、系には見えないですよねぇ。ちょっと調べてみた感じ、velfarreで過去人が死亡するような事故は起こって無いようだし、疑問はムクムク膨らみます。


【モナコGP】
 昨日の夜は、F1モナコGP。普通、ヨーロッパラウンドのレースは25時以降に放映開始するのに、仕事があった今日に限って22:55スタート。まぁモナコは、日本GP以外では唯一視聴率の取れるGPですから、この編成もやむを得ないのでしょうが。

 なんにせよ、今日は打ち上げなどへの参加も無かったので、さっくり帰って、無事見られました。レースはライコネン(マクラーレン)の独走状態で、トップ争いはほとんど無かったようなモンですが、今日の中盤争いは、息呑む展開と、もどかしさと、モナコならではの波乱(Mirabeauコーナーのあわや多重クラッシュとか)と、それなりに見所はあったような気がしないでもない……嘘。ちょっと物足りなかったです。

 で、物足りなかったワシは、92年のモナコGP決勝を取ったビデオの、ラスト10周を見なおしてしまいました。F1スキーとはいえ、一時遠ざかった時もあってそんなにレースを知るワケでもないのですが、そんなワシが過去見た中で最高のバトルは、この、92年モナコのラスト10周(特にいうならラスト3周)の、亡きアイルトン・セナvsナイジェル・マンセルのものです。

 前年チャンピオンの“マクラーレン・ホンダ”セナが、この年開幕5連勝を誇る“ウィリアムズ・ルノー”マンセルに一度も勝てないまま迎えた92年第6戦モナコGP。そしてこの年は、モナコGPの50周年でもありました。そのメモリアルレース、ここでも快調に飛ばすマンセルが、71周目でまさかの緊急ピットイン。彼のピットアウト後、その直前にセナが立ちふさがりました。

 マシンポテンシャルも上でリフレッシュタイヤを履いたマンセルは、75周目の最後にセナの後ろに張りつき、何度も何度もオーバーテイクを仕掛けますが、セナは絶対に抜かせない。テールトゥノーズから幾度も仕掛けますが、抜けない。ブルーフラッグが振られるほど、マンセルのスピードはセナを凌駕していましたが、それを抑えきったセナが、0.215秒の差で優勝しました。三宅アナ(アナウンサーとしては中堅になった頃でしたなぁ)の素晴らしい実況もあいまって、テレビの前で幾度と無く息を呑みました。

 こちらのサイトで、画像のキャプチャとともに、その年そのレースまでの経緯やラスト10周までの流れ、そしてラスト10周の興奮が書かれています。

 前回サンマリノGPの、M・シューマッハ(フェラーリ)とアロンソ(ルノー)の、やはりラストのバトルが、F1スキーの間ではこの92年モナコGPの再来といわれ、ワシも、実はぼんやりそんなことを考えていました。ミハエルの独裁にかげりの見えた今年のレースは、トップ争いのアロンソとライコネン、TOYOTAの躍進にBARホンダの底力と、まったく目が離せませんな。

2005-5-26 (Thu)Version 
自称ニュース系サイト→地図系サイト、と来て、今度は“泣きごと系サイト”で。

【失われた言葉】
 えぇと、本編、愚痴っぽくならないように書こうと心がけたのですが、結局愚痴にしか見えないですな……てわけで、読み飛ばし推奨でw。



 プチ修羅場であります。……いや、もちろん情愛のもつれとか遺産分割とかじゃなくて、ただの仕事です。といっても、まだ始まったばかりだし(故に“プチ”)、これまでに経てきた修羅場に比べて突出してツライわけでもない(と思いたい)のですが、これから、短くともひと月近くこの緊張感が続くくさいので、先のことを考えるとマジブルー(@マジレンジャー

 まぁ、たまたま一時期に、相当量の製作物(雑誌の広告とか、販促に使うチラシとか)が重なってしまい、アイデア出しとか露出場所の考案に、七転八倒な千辛万苦に抱腹絶倒の辛酸なめ子状態なワケです。

 さて、ワシは宣伝の仕事などをしているワケですが、普段の仕事の多くは、テキストを書くことだったりします。それは、扱っている商品を、分かりやすく消費者の方に届けるための作業です。それが広告なのか、販促物なのか、プレスリリースなのか、雑誌記事なのかの差はあれど、目的と手法は変わりません。

 で、この、「分かりやすく届ける」ための文章を書きつづけていると、どうしてもある程度の幅での表現となることが多く、それが結果的に、ワシから言葉を、語彙を失わせます。言い変えれば、表現力を失わせます。

 ちょうど、報道現場にいる人たちが、毎日事件を書いたり喋ったりしているうちに、「現場は惨状を極め」とか「遺族の哀しみを推し量ることはできません」とかといった、画一的な表現しかできなくなってしまうことに似ているかもしれません。

 で、言葉を失っていくのを自覚した時、とんでもなく寂しい気分になるのです。仮にも目指すところは、文筆を生業とすること。表現力の低下は致命的ですが、それ以上に、自分の脳内にあるものを、的確に言葉に変換できないもどかしさに苛まれます。

 例えば某所で毎日更新している日記も、お笑いネタだったり真面目トーク(?)だったりと内容は様々書いてますが、やはり表現は稚拙です。伝えたいことは伝わっていると思いますが(職業病)、それが自分の思っていることと一致しているかというと、必ずしもそうではない。

 今の仕事は楽しいし、自分の作っているものが(例え広告と言う虚業であっても)世間に広がっていく様には喜びを覚えます。しかし、商品を売るための表現を続けることが、自分の言葉を失わせているんだとしたら、それはやはりワシにとって、由々しき問題なのです。















誰もが、思い通りにいかない苦悩、ってヤツを抱えていることは知っている。

だけど、他人も同じ苦労を抱えている、と知ることが、いったい何の慰めになるって言うんだい?


2005-5-31 (Tue)Version 
“泣きごと系サイト”シリーズ第2弾。まぁ、某所からの再掲(加筆あり)ですが。

【人身事故に関するトラウマのようなもの】
 先週末の出来事。いつも通り仕事終わり終電で帰っていたワシの乗っていた列車が、ある駅で人身事故を起こしました。

 なんども車内放送が流れる中、ワシは某所のブログにケータイからリアルタイムで書き込みを始めます。



-----ココカラ-----
人身事故
 今乗っている電車が人身事故を起こしたそうです。止まっています。今立っているところから、電車八両分、およそ150m先で起こっている出来事が、電車の中にいると果てしなく遠い。



 今立っているところから、電車八両分、およそ150m先で起こった出来事は、きっと人ひとりの命に関わることなのに、なんだ、何も感じないんだ。

-----ココマデ-----



 その後も、車内アナウンスにあわせ、淡々と現状を書き込んでいたら、結構な数のコメントがついてしまいました。基本的に友人知人しか見てないブログですので、まぁ詰られたりはしなかったのですが、「リアルで怖い」とか「無感動過ぎー」とかと書かれて、あぁ、自分は如何に愚かなことをしているのだろう、と思い至りました。・・・・・・実際に愚かかどうかは分かりませんが、ワシには、愚かな行為に思えたのです。ただ、衝動だったのかもしれませんが、自分の行動を自分で止められなかったのも事実。いっそ消してしまおうかとも思いましたが、一度書いたことは、一度口に出したことのように、不可逆性のものと思っていますので、そのままにしました。

 そこで、なんでかなー、と動き出した電車の中で自分の思索を追っていると、何年か前の出来事が思いあたりました。

 先に、「なんだ、何も感じないんだ」と、ワシは書きました。無関心というか、無感動というか、まぁとにかく感情の起伏のないようなことを書きましたが、いや、正確には、無関心だった、というより、無関心であろうとしたんだと思います。要は、人身事故、というキーワードに対して思考停止に陥っていただけで、詰まるところは逃避をしてた、と。



 確か、21世紀になる数年前。中央線高円寺駅。



 友人と酒を楽しんだワシは、帰路へ付くべく、ひとり、夜の妙に閑散とした高円寺駅のホームに立っていました。ホーム先端から、泥酔したらしい、千鳥足の40代のオジサンがひとり歩いてきます。ホームの端に辿っては中央に戻る、を繰り返していたオジサンが、ワシのまさに目の前で、線路に転落しました。



 出来事としてはほんの10数秒くらいのことだったのかもしれません。



 ワシは、体がまるで動きませんでした。足は震え、手は硬直し、さらに声帯まで枯れ果てたように、助けを呼ぶ声すらあがりません。足下1mほど下の線路上には、落下のショックでうずくまり、うめくオジサン。

 そこに、転落に気付いた30代くらいの男性二人が、果敢にもホームから線路に飛び降りました。他にも、誰かが駅員を呼びに行ったようです。しかし、砕石がまかれ足下の安定しない線路上で、体系もふくよかなオジサンは、男性二人の手を持ってしてもなかなかに動きません。

 この段に及んでも、ワシはまだ解けない金縛りに抱きつかれていました。もうひとり、男手が加われば、オジサンは動いたかも知れないのに、ワシは動けず、ただ、目だけがその人たちの動きを追っています。

 おりしも、通過電車が進入してくるアナウンスが、ホームに流れます。

 まだ、ホーム上に「列車緊急停止スイッチ」も少なく、その存在も現在ほどにアピールされていない頃のことです。電車を止める術もしらない人たちの焦りは募ります。なんとか動かそうとする線路に降りた男性たち。しかし、再三の列車進入のアナウンスで、ついに諦めざるを得ない判断をしたのか、オジサンをそのままに、線路際に退避します。

 そこに、電車が進入してきました……最徐行で。この日だけは恐ろしく凶悪に見えた二つのライトで線路を、ホームを照らしたまま、オジサンの50mくらい手前で停止します。

 恐らく、駅員に知らせに行った人が、指令所を通じて列車に警告を発せたのでしょう。すぐに駅員も駆けつけ、電車の目の前で、オジサンは無事、助け出されました。

 数分遅れで高円寺駅を通過する電車を見送るまで、結局ワシはまったく動けませんでした。



 それからの数日間というもの、罪悪感に懊悩とする日々を過ごしました。線路に飛び降りて助ける勇気はなくても、すぐに誰かに知らせるとか、せめて声を上げるとか、オジサンを助けるための努力は、どんな小さなことでもひとつは出来たはずなのに、体も、声も動かなかった自分。



 そう、結局ワシは、オジサンを「見殺し」にしようとしてたんです。



 ・・・・・・電車に対する恐怖感も植えつけられましたが、乗れなくなるほどではなく、表向きは日常を過ごしながら数日が経ち、なんとか落ち付いたころ、人身事故、というキーワードに対して、思考を停止している自分に気付きました。

 罪悪感から逃れるために、それ自体に対して、考えることを放棄してしまったんだと思います。

 しかし、遠いところで起こっている人身事故はそれで良かったんですが(いや、被害にあってる方にはよかないですが)、例えば昨夜のように、自分の乗っている列車が人身事故を起こしました……という、一気にそれが身近な出来事になったとき、無関心を装って思考停止をしたようになっていながら、その実、激しい興奮状態になっているんだと思います。



 あの、高円寺の夜を思い出して。



 でも、この出来事をこうして人の目に触れるところに文章化できた、というのは、変な言い方ですが進歩です。ずっと、この恥知らずな一件は、誰にも話さずに墓まで持っていこうと思ってましたから。

▲コトノハDaily

2002 Tomosaku All Rights Reserved
Mail to tomosaku@yscompany.com