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モンスター二論


 人の命は平等じゃないんだもの。

 「モンスター」第一話、単行本で言うと二十七ページ四コマ目での、その当時主人公テンマの婚約者であったエヴァのセリフだ。そして、モンスターを、少なくとも既刊である一から十巻までを語るとき、最も重要なセリフである。

 私はこの物語に、二つの象徴を見いだした。これから、それぞれについて論じてみたいと思う。

 人の命は平等ではない。これは、テンマを、そして読者を驚愕させる一言である。なぜなら──などと今更言うまでもないことだが──我々、特に戦後民主主義を教育の柱にして育ってきた世代──当然テンマもそれに含まれる──は、人間は皆平等であり、人の命は何よりも尊い、という信仰を持っているからだ。

 これは、欧米諸国特に先進国といわれる国々で、グローバルスタンダードの名の下に今日の全世界を席巻する基本理念でもある。アメリカの例を見れば明らかなように、彼の国は何らかの交渉ごと、あるいは戦争を始める際、最近で言えば中国や北朝鮮との政治交渉や、イラクや旧ユーゴスラビアに、攻撃、軍事介入するとき、必ず葵の御紋のように「人権(Human Rights)」という言葉を吐く。人権、とは、人間は皆平等であるという前提にたって語られるものだ。

 だが、彼らにとってそれは、国内に向けてはあくまで「基本理念」に過ぎず、国外に向けては外交カードの一枚に過ぎない。国内においては、国益、公(Public)というもの、あるいはその国の指導者層がそう判断するものがまずあり、それに反しない範囲において人権は護られる。外国に対しては、やはりその国益にかなう利益を生み出すための交渉材料として人権という言葉が引き出される。彼の国の市井の人も、それを理解した上でそれに対する賛否両論を討議するのである。

 転じて戦後の、現代の日本ではどうか。国益、公というものは二次的、三次的なもの(あるいはそれ以下かもしれない)であり、始めに人権ありき、なのである。言い換えるなら、人々は皆平等であるから、それに反するものは例え国益や公の意志にかなうものであっても許してはならない。個人の命、意思は最も重要なものであるから、まずはそれこそが護られなくてはならない。

 すなわち公(public)の意識が完全に欠落しているのである。確かに日本国憲法第十三条には「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」とある。だが、人々の意識として、その公共の福祉と謳われる事項の範囲が非常に狭いのである。自分たちの暮らす社会の「公」よりも、個人すなわち「私」が優先させられるのである。

 話が大きくなってしまった感があるが、冒頭の「モンスター」のシーンは、ここまで記してきたことをふまえた上での、欧米人意識と日本人意識の対比を如実に示す。

 エヴァにとっての公とは、自分の父が院長を務める病院である。そのためには、切り捨ててもいい命というものもある。それは効率性を重視した結果であり、徹底したリアリズムの結果だ。

 テンマは、冒頭のエヴァの一言によって、人の命は平等であるという認識を自らに課す。それは後日、院長の命令を無視して、病院(公の象徴)の為になる市長の手術よりも、彼よりはやく病院に運ばれてきたヨハン・リーベルトという少年の手術を優先させるということになる。結果、市長は死に、少年は助かった。表象部分だけをおうならば、とても耳に心地よいお話だが、象徴部分においては公よりも自らの信念を取る、言い換えるならば自己満足のための選択である。

 どちらがよいか、について論じるのは無意味かもしれない。それぞれの意識はそれぞれ尊重されるものなのだろう。ただ、私見では、作者浦沢直樹はやはり日本人意識の方に肩入れしている気がする。だが、私はそれは戦後民主主義教育の弊害であると考える。だからといって、欧米人意識の方がいいと言っているのではない。もともと欧米の感覚である「人権」を、無理矢理日本に当てはめようとしていることに無理があるのだ。丸い穴に四角の蓋をかけようとしても、どうしても軋みが生じるものだ。今の歪んだ人権思想は、その現れであろう。私は、欧米には欧米の、日本には日本の基本理念を確立した方がいいと思っている。その発見に我々日本人は多大な苦労を強いられるかもしれない。それでも、アイデンティティーのコモンセンスを社会に作ることは、現代人の抱える様々な問題の突破口の一つになるはずだ。

 以上は、現存的な視点でのモンスター論である。あえてエヴァとテンマの比較だけで語ってみたが、この対比は後々の刊まで続いていく。

 さて、もう一つの論であるが、こちらは非常に非現存的である。それはこの物語の形而上における、キリスト教的視点による神と人類と悪魔の象徴である。

 エヴァ(Eve)とはイブのラテン名であり、すなわち旧約聖書創世記における人類最初の女性と同じ名前を持っており、禁断の木の実を食べた人間の象徴である。

 彼女は、自らが最大の利益を得るために落ちぶれたテンマを切り捨て、父の死によって失墜した後には堕落し、その原因をテンマに押し付け彼を憎み、その実彼を愛して追いかけていく。これは形而上において、利益のために神やその規律を切り捨て、それにより堕落した自らに失望し、自分で切り捨てたくせに、自分に対し何もしてくれなかった神に対して憤りを覚えながらその慈愛の元に行きたいということになろうか。前文における「神」という単語は、その人間の属するコミュニティーによって変化するだろうが、これらの自己矛盾と利己主義こそが、人類を語る上での最重要事項だというのは自明のことだろう。

 対してテンマは、天馬であり、それは天帝──古代中国では、宇宙の万物を支配すると考えられていた造物主であり、仏教で言う帝釈天であり、キリスト教で言う神である──の乗馬であり、すなわち神の側の象徴である。

 テンマは昏睡状態の(はずの)少年ヨハンに言う。「がんばって生きるんだぞ。僕はすべてを失ってまで君のオペをしたんだ。そうまでして、僕が君を生き返らせたんだからね」(第一巻八十五ページ五コマ目、七コマ目)。このセリフは重要である。シニカルな慈悲深さ、神の愛というものが、このセリフには含まれている。また、彼には、医師という職によって、人の命を操っているという意識があるのだ。すなわち造物主の象徴である。

 だが彼は、モンスターをも生み出してしまった。ヨハンである。ヨハンは、後々の物語で明らかになるが、なんの感情もなく人を殺し、異常なカリスマを持ち、人々の感情を手玉に取る。テンマは、そんなモンスターを自らが生み出してしまったことに苦悩する。まるでキリスト教において神が堕天使ルキフェルに悲しんだように……。

 そう、ヨハンは堕天使ルキフェルすなわち悪魔王サタンの象徴である。天上において最も美しきものとされ、悪の軍団を率い神に抗い、しかし神への愛を持ち続けた最高位の天使。まさにヨハンの役どころである。

 この論理について、物語の現段階ではあまり包括的なことは言えない。一番の疑問点は、ヨハネの黙示録第十三章1─4が、物語の一番の冒頭で引用されていることである。言うまでもなく、ヨハンと言う名前はヨハネ(Johannes)の転であり、この関連性が見えてくるのは、物語が完結したあとだろうと思われる。そのときまで、結論的なことを言うのは差し控えたい。

 以上二論を展開させてきたが、どちらも物語が完結していないこともあって、どうにも中途半端な形になってしまった。いずれ、きちんとリライトしてみたいと思う。だが、同時にこの物語の重要な部分は、すべて単行本一巻に集約されていると言える。あとの物語は、付記に過ぎない、そのような印象を私は持っている。いずれにせよ、私はこれからの展開に多大な期待を抱いている。


 『雑誌研究』という大学の授業の課題「浦沢直樹作『MONSTER』を読んで思うところを述べよ」で書いたもの。『浦沢直樹の[モンスター]を読む』(清水正 編著)に所蔵。内輪本でも載ると嬉しいものやね。
 ここにアップした時点で、単行本は15巻。まだまだ物語は続いているが、最近登場人物のインフレにおちいっているような気がする。まあ、それでも伏線をナントカするところが浦沢直樹のすごいところなんだけどね。

<2001年1月27日 ともさく>

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